風茶房 つのるなか

夫(kaze777)を亡くして猫と暮らしています。写真と珈琲が好きです。細見綾子、沢木欣一の俳句のことなど。

吹き出す芽すでにいてふの形成す 沢木欣一

吹き出す芽すでにいてふの形成す 沢木欣一

吹き出す芽すでにいてふの形成す 沢木欣一

昭和61年の俳句です。

カエデの芽が、まさしくカエデの葉の形であることは知っていましたが、イチョウもそうだとは、この俳句で知りました。

この句で詠んでいるのは、木の幹や枝から出た新芽ではなく、土から出てきた芽であろうと思い、撮るのは無理だと思っていたのです。けれど、藤を撮りに行った場所の近くに在ったのです。

実際にイチョウの芽を見ると、可愛らしさと、健気さと、たくましさを同時に感じました。小さきものの大きな未来が見えた気がしました。
力強い、欣一らしい句だと思います。

藤はさかり或る遠さより近よらず 細見綾子

藤はさかり或る遠さより近よらず 細見綾子

藤はさかり或る遠さより近よらず 細見綾子

昭和21年の俳句で、「奈良 三句」と前書があるうちの一句です。

この句は、春日大社の森にある野生藤を詠んだものだそうで、綾子は随筆で次のように書いています。

(前略)その藤を見る距離をその時発見した。それよりは近よれないというものを。
 藤の花の美に立ちすくんだとも言えよう。

 ―『俳句の表情』(求龍堂)より引用

藤は花の時期には遠くからでも見分けられますので、意識しながら近づいたことでしょう。もっと近くで見たいと思いながら間合いが縮まっていきます。
藤はひとつひとつの花を見ても、蝶が舞っているようで魅力的です。
しかし、綾子はそこまでは近づかず、一番いいところに立ち止まり、藤の花の美を見たのです。

その距離を「或る遠さ」と表現したのが綾子の類まれなるセンスです。
流れるようなリズムがあり、藤の花を見ると思い出してしまう名句だと思います。

父の忌の身を沈めたる杉菜原 沢木欣一

父の忌の身を沈めたる杉菜原 沢木欣一

父の忌の身を沈めたる杉菜原 沢木欣一

昭和38年の俳句です。

昭和35年、欣一の父・茂正は亡くなりました。
先日も父・茂正の忌日の俳句を掲載しましたが、4月21日が命日なので、今日はこの俳句にします。

本日は墓参りに行きました。茂正の命日を意識して墓参りをしたのは今回が初めてです。ブログの更新が目的であっても、真面目に俳句を読むと、写真でしか知らない義理の祖父とも縁を感じることができ、お墓参りに行こうという気になりました。

お墓参りの帰りに撮影のため立ち寄った場所で、たまたま、この杉菜原を見つけたのです。妻・綾子の好きな場所で、定期的に通っているところです。
他にも杉菜原はありましたが、身を沈める雰囲気を持った杉菜原はここだけでした。
導かれた感じがします。

杉菜を見ると、「ああ、土筆があったんだな」と思います。土筆、摘める場所なら摘んで帰りたいのです。もちろん、食用にします。

今日、墓所で咲いていたお花の写真をTwitterにアップしました。
ミヤマオダマキは4年振りに花を見ました。
ホソバチョウジソウとセンダイハギ(白花)は、昨年はコロナ自粛で見損ねています。

こでまりをコップに挿して供花とせり 沢木欣一

こでまりをコップに挿して供花とせり 沢木欣一

こでまりをコップに挿して供花とせり 沢木欣一

平成10年の俳句です。

コップに挿した供花なので、家で綾子に供えたのだろうと思います。
綾子の遺骨は墓所には納骨されず、奥の部屋にずっとありました。欣一が側に置いておきたかったからだと聞いています。

こでまりは家の庭に、ひっそりと在りました。高さは膝下でほんの少しです。後年になって気付いたくらいで、私の居た頃に実生で育ったのかと思っていました。
でも、この俳句を知って、以前から庭にあったのかもしれないと思いました。

欣一が詠む俳句に無駄はありません。
どの花でもいいけれど「こでまり」だったとは思えないのです。不確かな記憶なので書くのを迷いましたが、書くことによって教えてくださる方が現れるかもしれないので書いてしまいます。

たわわに咲く白い小花を背景にして屋外で撮られた綾子の肖像写真がありませんでしたか?
その花が白い花だったというのは確かなのですが、こでまりかどうかの自信がありません。家に保存されていたグラフ誌だったかで見た記憶があるのです。その写真が素晴らしかったので、見た当時にkazeと話したのです。綾子がその背景を望んで写真家に指定したのだけれど、白飛びの抑え具合が難しくて、「綾子先生はプロ泣かせの注文をしますね」というようなことを言われたのだとか。

写真はたくさん持ち出しているので、実物があるかもしれません。ゆっくり探してみます。

寺静かに足元にあり桔梗苗 細見綾子

寺静かに足元にあり桔梗苗 細見綾子

寺静かに足元にあり桔梗苗 細見綾子

昭和11年の俳句で、「京都竜安寺 二句」の前書があります。

この写真の桔梗苗は、我が家の墓所のものです。
植栽が許されるお寺さんでしたので、平成28年(2016年)にガーデンデザイナーのポール・スミザーさんに植えていただいた山野草12種のうちのひとつが桔梗でした。冬に枯れ枝を根元から切りますが、春になると新芽が出てきます。幼い植物の若緑色は、さり気ないけれど輝いていて、元気をくれる存在です。
綾子は、思いがけない場所にあった桔梗苗を見て嬉しかったのだろうと想像します。

墓所に植えた山野草の中には、絶えてしまったものや、毎年は花が咲かないものもあります。桔梗は丈夫に育って毎年たくさんの花を咲かせます。一番花、二番花と楽しんでいます。
ある年は二重桔梗(フタエギキョウ)が咲きました。一重の変異で咲くそうです。

桔梗の下の細い芽は、こぼれ種から育ったツルボです。これは花が咲くまで通常2年かかりますが、1年目で咲くものも少しはあるのが不思議です。

それぞれの草が、今年はどんな花姿を見せてくれるのでしょうか。

本日はkazeの月命日でした。

ぽつたりと音して牡丹桜散る 沢木欣一

ぽつたりと音して牡丹桜散る 沢木欣一

ぽつたりと音して牡丹桜散る 沢木欣一

昭和56年の俳句です。

ちょうど今、近所の牡丹桜(=八重桜)が散り始めています。写真は寒山(カンザン)という艶やかな品種です。現地で落花の音を聞こうと耳を澄ませましたが、聞こえてきませんでした。もう少し待てば良かったのかもしれません。
俳人は、咲く花は目で愛でて、落花は耳で聴くのかな、などと思ったりしました。

寒山は一重の桜と同じように、花びら1枚ずつバラバラに散るものもあるし、写真のように花柄ごと落ちるものもありました。
ここでは花柄付きの落花は少なかったようです。

昨日より今日新しき薺花 細見綾子

昨日より今日新しき薺花 細見綾子

昨日より今日新しき薺花 細見綾子

昭和23年の俳句です。

綾子俳句の中で、辛い時にも励まされる私の愛唱句です。
綾子は『自註現代俳句シリーズ 細見綾子集』で、「薺の花は白く小さくはりつめて咲く。昨日より今日が新しいのではないかと思わせるように。」と、書いています。

どこにでも生える草で、春の間は身近なところで咲いているので、いつでも見ることができます。でも、昨日とは違う新しい薺花だと綾子は言います。

前日に嫌なことがあって、どんよりした気持ちで迎えた朝、昨日と今日の区切りをつけて新しい気持ちで一日を迎えよう、と応援されているように思うので好きなのです。
特に嫌なことが無くても、毎日を新鮮な気持ちで迎えるのは良いことだと思いますが、凡人にはなかなか難しいです。